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マンドリンインタビュー マンドリン演奏会報告

被災地演奏会を終えて——prece代表・小松史明さんに聞く

 岩手県釜石市の小佐野地区生活応援センターで10月20日「東日本大震災被災地慰問コンサート」を行い、地元の人たちと交流してきたPrece(以下、プレーチェ)の代表・小松史明さん(写真)に話を聞いた。(写真、レポート:プレーチェ、レバンテ・マンドリン・オーケストラ)

Q プレーチェを立ち上げるに至ったいきさつを具体的に教えてください。
 
 震災直後、関東マンドリン界ではこれといって復興支援を目的とした活動がなかったのです。そんな中、僕は『音楽に携わる一人の人間として何かできることはないかな?』と考え、さっそく周囲の友人に声をかけてみました。それぞれが所属するマンドリン・サークル内では個人的にボランティアや募金などの活動に参加する者もいましたが、マンドリン団体として活動しようという話し合いなどは行なわれていなかったように思います。
 そこで、『まだマンドリン界では大々的なチャリティ・コンサートが行なわれていない。だから自分が開催しようと思うので力を貸して欲しい!』という言葉で勧誘しました。

 当初は、個人的に交友があった人間だけで結成しようかと思っていたのですが、その後、僕が所属していた関東マンドリン連盟のメーリングリストを用いて関東で活動するマンドリン・クラブ全体へ募集をかけてみました。他にもツイッターなどで勧誘した結果、人が人を呼ぶ形となり結果的に100名ほどが集まりました。
 そこで団体名を決める際に、マンドリン音楽による祈り(Prece)を被災地の方々に届けたい、そんな思いからマンドリン・オーケストラ・プレーチェは立ち上がりました。

Q 最初の2011/9/24公演終了時の、みなさんのあるいは個人的なものでけっこうです。手応えとか感触とか、感想を聞かせてください。

 2011/9/24公演(Prece第1回チャリティ・コンサート)を終えたとき、個人的には、この演奏会に関わってくれた人たちに『感謝の気持ち』を感じることがせいいっぱいでした。震災後に演奏会を開かせてもらえたこと、最後まで自分についてきてくれたプレーチェの奏者たち、そして演奏会当日に会場へ足を運んでくださった観客の皆様に対するものであったりします。
 被災地に対して何かしようと動いていた自分が、いつのまにか救われている立場になっていることに気が付きました。このチャリティ・コンサートを通じて改めて『音楽が人と人を結ぶ』という素晴らしいことを思い知りました。
 演奏会自体に対しても、自分たちが予想していた以上に集客があったことに驚きました。義援金に関しましても想像以上で、素直に言えば『今回のチャリティ・コンサートの目的を無事達成できた』と思いました。手応えを確かに感じていました。そして、なにより今後もこのプレーチェという団体での活動を続けていくことに意味があるという実感を得て、長期的な活動を続けることを、そこで決意しました。

Q 「『被災地の方々に音楽を直接届けたい!というプレーチェ本来の目的』の部分、マスコミ報道では多くのタレントさんたちの自発的な活動も数々報じられていました。
 アマチュア演奏家として、どのようなことを感じていたか、なにについて話し合ったか、教えてください。

 第1回チャリティ・コンサート以降、やはり被災地の方々に義援金を届けるのは大切ですが、音楽を届ける事こそが自分たちがやるべきことなのだと感じました。また、アマチュア演奏家が義援金を目的として活動することの限界も少し感じていましたので、改めて私たちが直接被災地に赴き演奏することを考え始めました。

 そこで、まずプレーチェから有志で被災地慰問演奏に協力してくれるメンバーを募集しました。
 初めに日程について話し合いました。慰問演奏を行なおうと僕が決心したのは今年、2012年の3月頃でしたので、最低でも準備に半年は必要だろうということで日程を10月に決定しました。11月になるとサークルの方の演奏会シーズンになり、開催が困難であったという理由もありました。
 次に演奏場所と移動方法ですが、『被災地の方々に音楽を届けたい!』という目標を達成するためには、やはり沿岸部付近で演奏するのが道理にかなっていると感じましたので、レヴァンテさんと釜石のボランティア・センターさんとの協力を得て小佐野地区生活応援センターを手配していただきました。
 東京から釜石までの移動方法は、普段からサークルの方でお世話になっています〈ワタルツーリスト〉さんに今回の企画について説明し、協力していただきました。大型バスを1台貸切にしてもらい、19〜21日の3日間、常に一緒に行動していただき、おかげで移動については一切不自由しませんでした。

 経費も重要な問題でした。基本的にプレーチェは団体の性質的に貯蓄などは不可能なので(収益は全て残らず寄付するため)、今回の企画における必要経費は全て参加者から徴収しました。3日間の交通費・宿泊費(1泊)・最低限の食費などを含むと一人当たり約16300円になりました。全ての経費は参加者たちの参加費によって工面されました。

Q 被災地も見学させてもらったそうですが、具体的にどのあたりを見学されましたか?

 釜石市沿岸部、釜石地区や鵜住居地区を中心に案内していただきました。当時被災地の風景をテレビや新聞といったマスコミ報道でしか見ていなかったので、直接目の当たりにした時のショックは今でもハッキリと覚えています。
 震災から1年と半年が経っていてもなお、道端に転がっている建物の破片や、高く積まれた瓦礫の山、2階部分まで骨組みだけになっていた建物などが残されており、震災前の普段の生活が感じ取れる風景を見て心が痛みました。

 今こうして目の前に転がっている瓦礫となった住居や、荒廃した街並みにも震災前には、あって当たり前の『日常』が存在しており、それらを津波がいかに残酷に奪い去っていったのかを考えると、自分たちが行なおうとしている活動などちっぽけなものだと思い知らされました。いえ、思い知るというよりは、自分たちにはこのような残酷な現実を受け止めるだけの覚悟ができていたのか? そのようなことも考えてしまいました。

 また、沿岸部の案内をしていただいていた時にやたらと広い野原が広がっている風景に出逢いました。初めは、もともと建物が立っていないそういう地区なのだろうと思ったのですが、よく見るとあちこちに建物の土台部分が残っていました。現地を案内してくださった方の淡々とした説明が衝撃でした。

 『震災前はこの地区には一面に家が建っており、向こう側にある海が見えないほどでした。しかし、今では、津波が全てを奪い去り、海が見えます・・・』

 この言葉こそ、震災が何を奪い去っていたのかを象徴している、と今になっても鮮明に残ります。それは紛れもなく『日常』であり、それは誰しもが自分の手元から離れることは無いものだと思っているものです。そんな『日常』が突如として発生した大地震・津波に より奪われた被災地の方々の気持ちを理解できるだなんて、そんな軽々しいことは現在の僕には口が裂けても言えません。ですが、こうして実際に被災地に足を運び、自分の目で確認したことで震災の残酷さを感じたことについては貴重な経験であり、チャリティ活動や復興支援を目的に活動する人間として必要な経験であったのだと、そう思います。

Q 今回の選曲の決めては? キーワードなどあったら教えてください。

選曲を開始するにあたって、まずはどういったお客さんが来てくださるのか? という部分から考えました。
・地域的におそらくご高齢の方々が多数来てくださるだろう
・学校が近くにあるので子供さんも来るかもしれない
・釜石に縁のある曲も喜ばれるかもしれない
・・・などといったポイントを団員に伝えて楽曲を募集して、指揮者である僕とコンマスなどを交えて選曲を行いました。
 その結果、前半は演歌を中心に選曲してご高齢のお客さんにも楽しんでもらえるような選曲になりました。中盤は日本人であれば一度はどこかで耳にしたことがあると思われるJ-ポップ曲を中心に選曲しました。後半はお子様向けの選曲を意識しました。本番当日は、残念ながら小さい子供さんは全く来場してもらえなかったのですが、大人の方にも十分楽しんでいただけたみたいで嬉しかったです。

 最後の曲目をマンドリン・オリジナル作品である「願いの叶う本」にしたことには理由があります。
 まずひとつ目はマンドリンの音が生かされる、マンドリンらしい響きがするように作られた曲を被災地の方に聴いてもらいたかったからということです。
 ふたつ目は、この作品に込められた想いを皆さんに伝えたかったからです。「この本は貸した相手の願いが叶う本です」という作曲者である丸本氏の説明にあるように、この曲には人を大切にする温かい想いが込められています。私たち関東からやってきた人間が演奏する「願いの叶う本」が被災地の皆さん一人ひとりの手元に届き、一人ひとりが抱えていらっしゃる願いが叶うことを祈って演奏させていただきました。

Q 行く前に想像していたこと、東京に戻って、多少時間を経た今思い返すことはそれぞれどんなことですか?

被災地に行く前に想像していたことは、「自分たちは被災地の方々に歓迎されないのではないのか?」ということでした。開演時間になっても誰も聞きに来て下さる方がいないのではという不安ばかりでした。それは私たち関東の人間たち、つまりは震災の影響を被災地の方々ほど直接的に被っていない人間が考える〈音楽の支援〉は、ただのエゴなのではないのか、そんなように思えてしまっていたからです。
 実際にプレーチェを創設した時から、周囲から同じようなことを言われていました。『アマチュアの学生演奏者が行なうチャリティや復興支援活動に意味などあるのか?』といった辛辣な指摘をされる方もいらっしゃいました。

 ですが、こうして被災地慰問演奏を終えて東京に戻ってきて考えることは『無意味などではなかった。少なくとも被災地の方々が自分たちの演奏を聴いてくださった間は楽しんで、感動していただけた、それだけで良かったのだ』と素直に思えました。

 確かにプロの演奏者や芸能人などと比べては対効果は得られないのかもしれませんが、終演後に会場の出口付近で涙ながらに僕の手を握りながら「またみんなが来てくれること楽しみにしています、私たちのことを忘れないでちょうだいね」と仰ってくださったお客さんがいました。その言葉は東京に戻って普段の生活を送る僕に対して何度も強く訴えかけ、アマチュア奏者である私たちに何ができるのかを理解するきっかけとなってくれました。
 それは、『小さな活動でも構わない、自分が被災地の為に行なっている小さな活動は確実にその延長線上に復興がある。そこに繋がっている。そう信じ、継続的に行動すること』こそ大切だということです。これはあくまでも僕個人が感じたことですが、きっとアマチュア演奏家としてチャリティや復興支援活動において自分のちっぽけさに悩む方々に共通して言えることであると思います。そして、そういった方々は勇気を出してぜひ行動に移していただきたいです、その被災地を思いやる温かい気持ちは無駄なんかではないのです。


 また、さきほどのお客さんの言葉によってプレーチェの今後の在り方について考えさせられました。その結果、プレーチェは今後も結成当初の目的である“継続的”な支援を長期間にわたって行うべきであると確信しました。東日本を襲った地震と津波の残酷さを実際に被災地に立って感じたプレーチェだからこそできる活動が今後もあるのだと思っています。

 プレーチェを主に運営する現在大学4年生の僕たちが来年から社会に出ることでプレーチェとしての活動を続けことに不安があることも事実です。ですが、年に一度の演奏会を目標に今後も活動を続けていく姿勢です。なぜなら、プレーチェの存在理由は長期的に活動してこそ意味があるからです。先ほども言いましたが、復興に必要なことは“継続性”だと思います。
 また、このたびの被災地慰問演奏をサポートしてくださったレヴァンテ・マンドリン・オーケストラ様と今後も協力していき、東北にてマンドリンの綺麗な音色を響かせたいと思います。

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