ギターは小さなオーケストラ。その真骨頂が岩永ワールド

  岩永善信氏のギターリサイタルが11月9日大阪(ザ・フェニックスホール)、16日名古屋(宗次ホール)に続き12月1日、東京・渋谷の白寿ホールで行われた。冬の始まりのこのシーズンに行われるようになってから東京は、はや14回目。ファンには季節を象徴するイベントとなっている。(撮影:かえるカメラ)

 プログラムはバロックからJ.S.バッハ、D.スカルラッティ、ロマン派およびその流れを汲む近代の作家からファリャ、メンデルスゾーン、ロッシーニの作品が並ぶ。いずれも氏のアレンジによる。

iwng14 シックな黒いスーツ、片手にギター。ステージ下手から颯爽と登場すると無造作に歩みを進めステージ中央で立ち止まる。会場に向けてにこやかに一礼。用意されている椅子にかけると抱えていたギターを膝にのせる。一連の動きの中で静かにチューニングを確認。これから始まる小さなオーケストラを予感させる沈黙がホールを満たす。そしてひと呼吸。そこに予想を超えた音像が出現する。

 クラシックギターの演奏会ではクラシックギターのために書かれた作品が主に演奏される。が、岩永さんのステージでは、そうした作品は滅多に聴けない。また聴きたいと思う人も少ないかもしれない。なぜなら、岩永公演では“聴き慣れたはずのクラシックの管弦楽作品を素材に、ギター1本によるオーケストレーションの可能性”が試され、演奏される。そして作曲家の声が、彼のギターの奥から聴こえてくる。このマジックとしか言いようのない音楽体験に接すると、もうやみつきになる。

 そんな音楽空間を作り出す為の編曲作業、それを実現する演奏テクニックの修練。そんなことを思うとちょっと気が遠くなる。

 アマチュア・ギタリストの多くはプロ演奏家と同じ譜面を使い音をなぞり終わるといったんは「弾けた」と結論し時に暗譜してレパートリーを増やしていく。もちろん同じ「弾ける曲」でも表現は千差万別。でもとにかく「弾けた」ことの延長にプロの演奏がある、と錯覚してしまう。その錯覚・妄想が楽しくて今日も練習に励む。それはそれでいい。
 岩永さんのギター音楽はそうしたこととはまったく異なる地平にある。それはクラシックの音楽家として“楽譜を通して作曲家が実現しようとした〈作品〉を、ギターで弾く”ということなのだ。ただしその作品はギターのために書かれた作品ではなく、彼自身が音楽として愛するクラシック作品だ。当たり前のように見えて、これは「単なるアレンジ」と「その演奏」なのではない。岩永さんにしかできない〈表現〉。

 バッハを最初に持ってくるのはここ最近のスタイル。もともとリュートのために作曲されている作品も含まれる「プレリュード」と「リュート組曲」から。ギタリストにもなじみ深い作品。これを10弦ギター作品として演奏。続くD.スカルラッティの躍動とともにバロックの華麗を醸し出した。

 休憩を挟んでファリャ、メンデルスゾーン、ロッシーニ。「展覧会の絵」もそうだったが、ファリャ?「火祭りの踊り」?それに「セビリアの理髪師」? そりゃ楽しみだけど、どんな空間になるのだろう? ちょっと想像がつかない。ところが演奏が始まると鳴っているのはギター。しかし空間にはそれぞれの作品世界が小さなイリュージョンとして見えていると錯覚するような時間が流れる。至福のひととき。

 岩永さんのステージは「トライアル」ではない。テクニックのための披露宴でもない。仕上がりは難曲に仕上がっているから容易に誤解されそうな危うさも孕んでいる。しかし、10弦ギターが奇をてらった楽器ではなく倍音列のバランスを考慮して6弦プラス低音部として設計されたものであることが示すように、重ねて記すが正攻法の音楽家/ギタリストによる「音楽表現」なのだ。
 儚い繊細なイメージと、図太くどっしりとした安定感も合わせ持つ無二のギター音楽の妙味。来年はなにを聴かせてくれるのだろうか。

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