指揮者の道を邁進し始めた久保田青年は、
音楽的視野もさらに幅広くなっていったようで、
ついに母校のオーケストラから音楽監督のオファーを受けます。
そしてその後留学。さらに研磨を積んで行きます。
音楽に対しては「くそ」がつくくらいまじめな
久保田先生ならではのエピソード、最終回です。
○●○ | 三石先生には個人レッスンを受けられたんですね? |
久保田 | そうです。 それで3年間習っていたら 明大マンドリンクラブの音楽監督に任命されたんです。 |
○●○ | そうだったんですか?
|
久保田 | 僕が学生のときにも先輩を音楽監督に という話があったんです。 そのときはほかの人たちといっしょに 僕は猛反対したんです。 自分たちのやりたいことができなくなっちゃう からって。 |
○●○ | ああ…。 |
久保田 | その時は指導者として
清水先生もいらっしゃって、 そのほかに先輩もきたら 思い通りにはできないから、と。 |
○●○ | いろんな方針、 取り上げる作品に関する発言権が強いわけですね? |
久保田 | そう。だから、僕が卒業してから 「おまえやれ」って言われても 「学生が絶対望んでいないから」 と最初は断ったんです。 でも「いや学生は望んでいる、 やってほいいと思っている」と。 |
○●○ | へえ…。 |
久保田 | で、受けて、1年間やった頃、 自分でもっと勉強したい という気持ちが強くなり、 古賀政男先生にも相談して 「留学したい」と。 「じゃ、行ってきなさい」と。 |
○●○ | そうですか。
|
久保田 | で、最初は2-3年のつもりだったんですが それが6年になって。 だから明大のほうは、 ほかの人にお願いすることにしました。 最初、旧西独カールスルーエ音楽大学指揮科では アルトゥール・グリューバーという先生につきました。 で4年目の夏に ウィーンのハンス・スワロフスキー(1899-1975)先生が 「指揮者のためのマイスターコース」という マスタークラスを オーストリアの避暑地でやっていました。 オシアッハという湖のほとりです。 |
○●○ | ハンス・スワロフスキーさんというのは どういう人ですか? |
久保田 | ウィーン音楽大学の教授ですね。 指揮で名演をたくさん残されていますが 名指揮者を育てたことでも名前を残された方ですね。 |
○●○ | あ、それで有名なんですね。 |
久保田 | で、そのマスタークラスは インターナショナルなイベントですから、 これは新聞にも載ったんですが、 24カ国から 72人の指揮者が集まったんです。 クラスでは、実際に指揮する参加者と、 見学だけの聴講生がいます。 |
○●○ | ええ、ええ。 |
久保田 | セミナーの期間中に、そのふたつ、 どちらか申し込むんですね。 で、実際に指揮するほうに申し込んでも教授から 「君は聴講にまわりなさい」といわれることもあるんです。 で、僕も申し込みに行ったら、 ほとんど全員が振りたいって申し込んでいました。 |
○●○ | 競争率が高い! |
久保田 | しかし、72人。 全員に振らせてたら1か月経っても終わらない。 だから翌日テストするっていうことになりました。 |
○●○ | はい…。 |
久保田 | で、課題はブラームスだと言うんです。 試験の現場では、いきなり「1番の3楽章!」とか 「2番の2楽章!」とか言われて振るんです。 |
○●○ | 緊張しますね。 |
久保田 | ボクの番が来たとき「2番の3楽章!」と言われた。 準備してなかったんですよ!(笑) 1番はどこがきてもいいくらい やっておいたんですが。 |
○●○ | え!? で、どうしたんですか? |
久保田 | <それで、 「たまたまこの曲は準備していなかった、ほかの曲にしてくれ」 と思い切って申し出てみました。 そしたら、うんともすんとも言わず 「じゃ、1番の4楽章」と言われました。 |
○●○ | ああ…。 |
久保田 | この曲はゆっくり、2拍目から始まるんですね。 で1音目を出したら、違う! 1拍目を予備打無しで小さく振り下ろしたら、 弾き始める人が出てしまった。 そこでオケに向かって 「2拍目から弾いてください」 といってやったら また違う。 もう1回やり仕切り直して4回目にうまく出た。 それからはすごくいい演奏になったんですよ! それですごい満足して翌日結果を見たら 試験を通った30人の中にボクの名前もありました(笑)。 |
○●○ | ええ、ええ…。 |
久保田 | それでずっと進んで行って 「未完成」とか「」第九」をやったんですが ゆっくり流れるように。 そういうところの指導が素晴らしいんですね。 セミナーにはもうプロで仕事をしているひとも 大勢来ている。 その中のひとりが 「わたしはこうやって成功している」とか いろいろ教え方に反論していた。 そしたら怒られてましたね。 |
○●○ | そういう議論をするよりは…。 |
久保田 | つまりここでは教えられたように振る。 「教わる気がないなら帰りなさい!」と。 ボクは、忠実にやっていた。そしたら 「君は、素晴らしい! 発表会のときにこの未完成を振りなさい」 と指名されました。 でも「まだそれはだれにも言っちゃいけない」 っていわれましたけど。 |
○●○ | 内定ですね。 |
久保田 | で、セミナーが終わるときの発表会の直前に 5人が選ばれていました。 その中にボクも残っていたんです。 |
○●○ | すごい! よかったですね。
|
久保田 | 交響曲の1、2楽章と、3、4楽章を分けて 2人で振った人たちもいましたが、 僕は「未完成」を全曲振らせてもらい、 高い評価を受けることができました。 で、もっと勉強したいと言う気がまたさらに強くなって ウィーン音楽大学に移籍してもう2年留学を延長しました。 |
○●○ | そうだったんですか。
|
久保田 | で、ここの指揮科は、ほんとうは、 たとえば作曲科も声楽科も最初は8年なんですね。 指揮科は作曲科を終了した上で、 4年間かけて卒業するトータル12年間のコースなんです。 でも、ぼくはドイツでやってきていたこともあったし。 それに移籍するにあたっては試験があるんですが、 スワロフスキーのセミナーに教授たちも来ている。 だからすでにぼくのこともよく知っていて、 それも有利に働きましたね。 |
○●○ | ああ、そいういうこともあるんですね。 |
久保田 | その移籍した先に 小泉ひろしっていう指揮者がいますが、 すでに彼はそこにいた。 それで、ボクはできるだけ長く 勉強したいと思っていたら、彼は 早く日本に戻って仕事としてやりたい、と言う。 その話を聞いて、僕も「そういう方法もあるな」 と思ったので2年で卒業して帰ってきました。 |
○●○ | え、ええ???…。 |
久保田 | 1年から2年、2年から3年と上へ上がるには 全教授のサインが必要なんですが どんどんクリアして 2年で終わらせて帰国したんです。 |
○●○ | そして、国内オーケストラへの指揮者エントリー、 マンドリンオーケストラの設立へと至るんですね。 |
久保田 | そうです。 |
○●○ | 日本国内のオーケストラの特徴や学生オーケストラの特徴、 課題、といったことに関しては、 また機会を改めて伺わせてください。 今日は、ありがとうございました。 |
2008年夏 |
(おしまい)