(interview:Kazutaka Ebe/photo:KaeruCamera)
マンドリンは音楽の母。そして父は・・・
岡村:そうえいば、第1回のコンクールでは、小沢征爾さんの師匠、斉藤秀雄さんも出ていらしたと思います。で、2番か3番やったと思う。
ーーあ、審査委員じゃなくて、参加者だったという時代ですね。斉藤さんも最初の楽器はマンドリンだったんですよね。後に「オルケストル・エトワール」というマンドリンオーケストラを作ってらっしゃいますね。
岡村:この第1回にはのちに音楽界で有名になる人がいっぱい出ていたの。
ーー有名というか、文字通り日本の音楽史を作った人たちですよね。それらの人たち、日本の音楽界を背負った人たちがほとんど例外なくマンドリンから出てきているというのはすごくおもしろいですね。すごいことですよね。
岡村:日本の音楽界の母体はマンドリンなんです。
ーーですよね。マンドリン以外の世界のひとたちでそのことを認識している人って、あまりいないような気がします。
岡村:うん、どうだろう、知らないだろうな。ともかく最初は、明治期にはマンドリンもバイオリンもチェロも並んでいたかもしれない。それがバイオリン族は進み、マンドリンは遅れましたね。なぜ、こんなに遅れたのか? マンドリンはアマチュアイズムから抜け出せなかったからなのか?
もしムニエルがあの頃いたら、変わってたかもしれない。それからカラーチェが来日しましたよね。
ーー1924年ですね。
岡村:それからアメリカに行って演奏会をやっている。そういうことがあっても、一人カラーチェの力では伸びなかったんですねえ。
ーーギターだと同じ頃、1928年にセゴビアが来てますね。それもその時点では爆発的なことにはならなかったと思いますからね。まだメディアがなかったし。SP盤〜蓄音機の普及やラジオ放送の開始はその後ですからね。だから、その後の活躍がどうなるかで変わっていったようですね。
岡村:そうかな、そうかもしれないな。いいマンドリン演奏家ということではフランスにマリア・シヴィッターロ Maria Scivittaroという人がいたんですが、女性マンドリン演奏家で、僕はこのひとが最高の演奏家だと思っています。
ーーああ、聴いてみたいですね。
岡村:レコードもいっぱい残っていますよ。
ーーいい演奏ということでは、マンドリンのいい演奏というのは、音がマルいですね。耳に心地いい。
岡村:それはありますね。
ーー好きな演奏は丸い音がする演奏、という言い方もできるかもしれませんが。マルい、コロコロした音でメロディーがスッと入ってくる。マンドリンっていいな、って思いますね。ソロでも合奏でも。合奏のリハの現場でも最初の音だしは合い方がまだしっくり行かず、しばらくすると、すごくいい響きになりますよね。今日のリハーサル聴かせていただいていてもそれを感じました。
岡村:ぼくはそもそもイタリア音楽が好きだけど、イタリアの作曲家はメロディーがいい。そういう人が多い。ああいうものはなかなかまねできない。
ーーオペラはイタリア!ですね。アメリカンオペラ・・・は、ミュージカルになるのかもしれませんが。
岡村:ははは、勝てないですよ。イタリアのメロディー。あのメロディーは“血”です。ぼくの個人的な意見だけど。
マンドリンが日本の音楽の母であるという考え方は、あながち間違っていないのではないか。そして私たちはつい父のことを忘れる。後悔する前に父母ともたいせつにしなくちゃ!
同志社大学マンドリンクラブの原点の象徴でもある2杯の優勝カップは、その現物を「100周年資料展」で見ることができます。
(おわり)