(interview:Kazutaka Ebe/photo:KaeruCamera)
イタリアの作曲家
ーーマンドリンの父であり母である作曲家たちと彼らの作品が、今現在一般的でないと思うんですが岡村先生はなぜだと思いますか?岡村:ムニエルの教則本があるんですが、それがなかなか弾けない。難しいんです。
ーー難しいですか。
岡村:最高の教則本なんですが。もしそれが広がったら、まったく違うことになっていたと思います。なかなかあの内容を作れる人はいないと思います。それほど素晴らしいけど、難しい。
ーー岡村先生もムニエルの教則本で入門したんですか?
岡村:そうです。同志社大学は伝統的にムニエルで来たはずです。それで、それほど素晴らしい人だったから、イタリアに行ったら墓参りしようとお墓を探したんです。マンドリンの父はイタリアでもさぞや立派に埋葬されているだろう、だからかんたんに見つかるだろう。そう思っていたら、無縁墓みたいな扱いで、イタリア国内でさえムニエルは忘れられていたんです。
ーーそれで、岡村先生が、正式に名前を刻んでそのお墓を作り直されたんですよね?クラブ80年史に詳細なレポートを書かれていましたね。
岡村:そうそう。ムニエルはわれわれの父であり、母です。われわれが、もっとムニエルを広げないとダメです。そう思っています。
ーー中野先生のムニエルに対する考え方は?
岡村:もちろん、中野先生も評価されておられたというか、ムニエルの影響のもとにおられたと思います。今は、だからあまりにもムニエルをおろそかにしていると思いますね。
ーー再評価の機運を起こす必要があるかもしれませんね。
岡村:ぜったい必要ですね。
ーーしかしイタリアでの評価も世間からともすると忘れられているというのは・・・。
岡村:若くして亡くなったことも原因でしょうね。51歳で、たぶん脳卒中だと思うんです。楽器製作で有名なヴィナッチャという人がいますが、そのパスクワール・ヴィナッチャはムニエルにとって母方のおじいちゃんなんです。
ーー大伯父にあたるんですね。
岡村:ヴィナッチャのマンドリンは当時からすでに有名でした。ムニエルはその楽器の宣伝もかねてナポリからフィレンツェにも行ったんですね。で、あちこちで売って、51歳で亡くなる。すると、その後奥さんは再婚して、それでムニエルの活動を残すような積極的なことはしなかったようなんです。
ーーいまのところ、そういう命運にあったということなんでしょうね。マンドリンの宣伝ということはフィレンツェでも作曲や指導、演奏活動もしたということでしょうね。
岡村:そうです。で、最近その奥さんが持っていたというムニエルの残した手紙とか写真などいろんなものが発見されたんですよ。その奥さんの甥が持っていたんです。重要なことがいっぱいわかると思います。2010年中か2011年には発表したいと思っているんですよ。大発見ですよ。
(続きます)